一般社団法人士業適正広告推進協議会(士推協)

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「手続き」という言葉〜親しみやすさか、正確さか

2021年2月24日

士業適正広告推進協議会 顧問
弁護士 深澤諭史

1.士業と親しみやすさ

士業広告はもちろん、士業の業務、例えば面談であるとか、問い合わせ対応であるとか、そういう場面から、士業の業務においては、「親しみやすさ」が求められている。

もちろん、一般市民を対象にする事業においては、親しみやすさは非常に重要である。これは士業に限ったことではない。

しかし、士業において、親しみやすさが特に強調されるのはなぜであろうか。それは、そもそも士業や士業の業務には、市民にとっての親しみやすさがない、もっといえば、敷居が高い(親しみやすさがない、抵抗があるという趣旨でのこの言葉の使い方は不正確であるが、一般に使われているので、あえて使う。)ということである。

士業に何かを依頼するということは、一般市民にとっては、そうそうあることではない。裁判などの紛争はもちろんのこと、登記や相続税などの申告であってもそうそうあることではない。

士業は、滅多にないこと、人生の一大事、あるいは紛争など葛藤の大きい案件を扱うのであるから、なかなか親しみがわかない、いざ依頼する段階でも敷居の高さを感じてしまうことがしばしばあるのは、業務の性質上、やむを得ないともいえる。

しかし、そういった抵抗感を市民が感じていると、そうこうしているうちに、適切な助力を得る機会を逃してしまう、事案を悪化させてしまう、ということになる。これは、市民にとって不幸なことであるし、士業にとっても、社会から負託されている責務を果たしているとはいえないとも指摘できる。

そこで、そういう敷居の高さとか、抵抗感を払拭するために、士業としては、市民に対して親しみやすさをアピールするべきである。それは士業の業務拡大の為だけではなく、市民が適切な士業サービスを得るためにも重要であるといえる。

2.「敷居の高さ」の中核

士業にとって親しみやすさのアピールとは何であろうか。また、敷居の高さの原因はどこにあるのだろうか。

まず、他ならぬ士業自身、個人が、親しみやすさ、懇切丁寧さをアピールするという方法がある。

士業は、しばしば「先生」と呼ばれ、いかにも権威主義的な感を感じさせないでもない。そこで、個人的な趣味であるとか、写真とか、そういったものを掲載して親しみやすさをアピールする、ということはしばしば行われている。

一方で、これだけでは市民にとって十分でないこともある。市民にとって、士業への敷居の高さとは、士業個人だけに起因する(つまり、士業が怖いという誤解だけではない。)ものではない。

一般市民が士業への相談や依頼を躊躇するのは、それが紛争であったり、葛藤があったり、あるいは、あまり人に話したくないプライベートなことを話す必要があるからである(家事事件などはその典型であろう。)。また、士業に依頼することで、裁判等の大変な「手続き」のレールに乗せられ、大変な苦労をするのではないか、という危惧である。

士業に依頼することは大事であり、あるいは、大事になるのであり、それに向き合うのは大変だから、敷居の高さを感じる、ということである。

3.「手続き」という言葉と親しみやすさ

最近、士業広告には、「○○手続き」により、お金が得られる(返還される。)、解決する、という様な広告が散見される。

このような表現を使う理由は、親しみやすさのアピールであり、あるいは、敷居の高さを払拭し、あるいは、「手続き」に過ぎないから困難ではない、(比較的)簡単であることのアピールであると思われる。

裁判とか、訴訟とか、交渉とか、そういう言葉を並べると、かなり難しい、長く苦しい戦いを想像してしまう。しかし、「手続き」というのであれば、何か役所で手続きをして申請をするように、一定の書類を出すことで、自動的に結果が得られるかのような過大な期待まで抱きかねない。

実際に簡単な手続きである場合もあるのだろうか、その中には、裁判をする、それも簡単な裁判ではなくて、種々の被害を訴えなければならない、そのために証拠を集めなければならない、そういった困難なケースもある。

裁判や交渉、請求といった事案において、「手続き」という言葉を使うことは、親しみやすさアピールの点からはメリットが大いにある。しかし、依頼者からすると、ともすれば簡単に解決するという過大な期待を抱かせてしまう、困難性への覚悟が不足することで、受任後のトラブルにもつながりかねない、という問題がある。

4.「手続き」という言葉をどこまで使ってよいか

裁判をしないといけないのに、「請求手続き」「返金手続き」といった、簡単なイメージを与える言葉を使うことの可否について、これを否定する見解もある。実際に、弁護士広告で問題になったケースも過去にあった。

しかしながら、筆者としては、リスクを示す適切な打ち消し表示(訴訟が必要であることや、長引く可能性などのリスク)や、相談と受任時の適切な説明があれば、ある程度「手続き」であるとの表示をすることは問題は無いし、適切であると考える。

たしかに、一般市民にとって、裁判、訴訟といった行為は、大変なものである。そうすると、それらについて「手続き」といってしまうのは、誤解を招くかもしれない。

しかし、訴訟であっても、それは裁判所で行う「手続き」に過ぎない。また、裁判について抵抗感があることについて、「そもそも、裁判に対して過度な抵抗感を抱く」ということ自体が問題ではないのか、という問題意識はもっとあってよい。訴訟を手続きということが問題なのではなくて、訴訟を手続きということが問題視されることが問題なのかもしれない、ということである。

訴訟が必要になるかもしれない案件において、「手続き」という言葉を使うことを禁じることは、かえって、裁判や訴訟といったものへの過度な抵抗感、もっといえば偏見を助長する結果になるのではないか。

筆者も、弁護士として、裁判に抵抗感を示す相談者、依頼者には数多く向き合ってきた。その中で、よく使う言葉は、次の様なものである。すなわち、「裁判といっても、別に果たし合いをするわけではありません。設定したテーマについて、裁判所に仲裁をしてもらい、仲裁できないなら判断をもらう、という手続きです。『争い事』に抵抗があるかもしれませんが、既に紛争になっていることには変わりありません。せっかく税金で作ってもらったサービスなので、利用を避けるべきではありません。」というように、なるべく誤解を払拭するように努めている。

もちろん、裁判には裁判の苦労があるし、濫訴などはもってのほかである。

したがって、裁判という手続きについて、これを過度に軽く見せるべきではない。しかし、一方で「裁判なんて大変な作業が必要なのに『○○手続き』なんて言葉を使うのは、誤解を招くのでケシカラン」という発想は、ともすれば、かえって、市民の士業、特に法律サービス利用の機会を奪ってはいないだろうか。